
――私どもは、主に小中高生向けの学習参考書を出版している会社でして、今年でちょうど80周年になります。
それはすごいですね!
――ありがとうございます!その記念として立ち上げたサイトのテーマが「挑戦」というものなんですが、挑戦といえばこの方しかいない!と。
わかりました!どうぞ。
――ではまず、子どものころのお話からお聞きしたいと思います。猪木さんのように名をなしている方は、小さい頃からその片鱗をみせていたのかな、ということが気になりまして。
まあ、一言で言えば劣等生でしたね。俺は早生まれなんですが(2月20日生まれ)、教育界では(幼少時は)生まれが3か月違うと成長が一年違うというくらいでね。それで、昔は一クラスが70人くらいいたでしょ?でもう、とにかく一年一年上がっていきますからね。成績が良かろうが悪かろうが関係なしに。その中で俺は早生まれで、そういう意味での劣等意識はすごくあったんですけど…。そんな中でひとつ覚えてることがあって。じいさんが、いつもお客さんが来ると俺を呼びつけて、「手を見せろ、足を見せろ」と言うんですね。要するに「デカイだろ」というね。たったそれだけなんですけど、まぁ感じ方もあるんだけど、「俺は違うんだ」とか、何かそういう意識を植えつけてくれて。昔、じいさんが大事にしていた柱時計があってね。1回大きな地震があって、揺れて大騒ぎになったときに、その時計を俺が押さえてたっていうことがあってね。まぁそういうこともあって、記憶には残ってるのかね。じいさんが「こいつは見所がある」みたいなことを言ってたみたいで。
――そのころから、飛び抜けて大きかったんですか?
そうですね。小学校を卒業するころは、もう180近くありましたからね。
――小学生で180! すごいですね。猪木さんは、その後プロレスの道に進むわけですが、小さいころから、自分はこの体を活かして何かをやるんだとか、そういった目標を持っていたんですか?
まぁ、そのへんはそうですね。もう中学上がるくらいから。直接は会ってないですけど、相撲部屋からもスカウトが来てたりとかして。それから力道山のプロレスがテレビで公開されましたし、「いつかは!」という、もう目標は決まっていましたね。
――小学生のときからですか。
小学校というか、まぁ中学、そのぎりぎりのとこですね。だから、職種に迷ったことがないという。みんなが今いろいろ「何になろう…、職種は…」と悩んだりしてますけど、それは一切なかったので。それで、プロレスに入って、師匠の力道山が亡くなった後、新しい体制になっていく中で、人に使われるのが嫌だから俺は社長だって勝手にそう思ってただけで。ムフフ。まぁそう思ったことが全部実現してしまうというね。
――さすがですね!猪木さんは、中学生のときにブラジルに行かれて、そこでスカウトされて、17歳で親元を離れて日本に戻って来られますよね。寂しいと思ったりはしませんでしたか?
まぁそれはたしかに、兄弟家族から…、ねえ。まぁでも、夢の方が大きかったですから。それよりも、もう人生走ることの方が重要、「とにかく強くなりたい!チャンピオンになりたい!」という思いが強かったんで。

――目標にされていた方は、やはり力道山さん?
まぁ、師匠を超えたいというね、それは。他には豊登※さんとか。でも、やっぱりそこにいるトップというかね。そこを目指してましたね。
――トップになるためにこんな努力をしていた、ということはありますか?
まぁ、後でいろんな人が評価してくれる部分もあるんですけど、この世界に入ってそれは当たり前の話で。人がそれを努力と見るのかどうかは知らない。とにかく、一番になるためには、人よりも練習量を多くっていうね。もうひとつはやっぱり、師匠の力道山が、事業的センスがあったんですね。単なる選手というだけじゃなくて、興行師としても。で、その付き人をやってたんで、まぁ何て言うんですかね、専門バカという言葉がありますけど、多方面からモノを見たりする部分が培われたと思いますね。もうひとつは、じいさんの影響も強いんですけどね。
――師匠を超えたいという思いの他に、当時何か支えにされていたことはありますか?
じいさんが言っていた、「何でも一番になれ!どんなことでもいいから一番になれ!」という言葉ですね。あと、当時のヒーロー像として、名前は挙げませんけどいろんな方が戦後出てきたんですが、力道山はその比じゃないですね。まぁ、ある意味では、365日スキャンダルみたいな(笑)今だったら大変だけど、当時はそれがまかり通ったというね。まぁ豪傑という言い方もあるし、あるいは、超スーパーヒーローという言い方もあるし。まぁ時代が生んだ、単なる運が良かったというものを越えた、何か役割を背負った人だったと思います。
――10代20代のころといえば、遊びたい盛りだと思うんですが、そういった、プロレス以外のことに目が行くことはなかったですか?
遊びってのは…、なかったですね。まぁ敢えて挙げるとすれば、旅ですね。レスリングといっても、やはり海外遠征というのは旅の連続ですからね。だから修行時代は、もう州から州へ、街から街へとぐるーっと。まぁ日本の中もそうでしたけど、アメリカは広いですからね。やっぱり、言葉の問題もあったり、食事の問題もあったりとかね。
――世界中を旅されて、何か苦手な食べ物とかはありますか?
ないですね!だいたい何でも。ムフフフ(意味深な笑み)。
――トップを目指して取り組んでこられる中で、「もうダメなんじゃないか」とか、挫けるようなときはありましたか?
まぁ、何回かは。辞めようと思ったことは…、まぁ1回だけ。いや辛くてというわけじゃなくて、矛盾を感じてね。やっぱり、師匠が何を求めてるかなんて分からない歳ですからね。だからもう、結局期待されてないんじゃないかって思うことがありましたよ。大阪での話なんですけどね。「よし!やった!」という試合で帰ってきたけど、(師匠に)木刀でぶちまくられて…。その説明が何もなくてね。もう、辞めるしかないな、というくらい。ただ、いい先輩がいて、翌日誘ってくれて「何食いたい?」っていうから、「焼肉!」って言ったんですね。結局ヤケクソで25人前食ったという。ガッハッハ。まぁそういう意味では、時々にいい人がいて。人に恵まれたというか、ほんとに救われましたね。
――それはやはり同業の先輩ですか?それ以外でも?
まぁそれは…、事業もやってますからね。ほんとに、ここ一番、もう借金だらけでどうにもならないというときも、不思議と救世主が現れるというかね。その事業というのも、個人の目的じゃなく、環境問題であるとか、食糧問題に関わる仕事とか、そういうものに興味があるもんで。で、自分がそれ専門にずっとやっていれば、また違うんだけど、結局はプロレスが本業ですからね。で、思いがそっちにあって、人に任せるけど、まぁそのとおりに上手くいかなかったり、あるいは時代が味方してなかったりとかね。借金だらけで、大変なときもありましたね。
――それは何歳くらいのときでしょうか。
まず最初のときは、二十何歳ですかね。日本帰ってきて、会社が潰れましたからね。先輩の作った借金を背負って、まぁ当時で5千万くらいですかね。大変な金ですね、47〜8年前ですからね。まぁ、逃げずにそれを背負って人生やってきたんで…。でも結局、そこはひとつひとつが勉強になりましたよ。やっぱり逃げたいんですよね。で、逃げてしまえば、それで済んでしまうこともあるじゃないですか。法的にどうのこうの言ったって、ないものは取れないとかね。でも、そこで絶対に逃げ隠れができないのが人気商売の宿命ですからね。まぁそれも、今振り返ってみると、良かったなと。
――逆境から学ぶという姿勢ですね。猪木さんは、これまでの人生逃げずにきたということなんですが、何かを諦めた経験はありますか?
まぁいろんなことがありますんでね。プロレスは…、諦めるっていうより、自分もやりたいことやってきて、もう引退して後は後輩たちが成長してくれればと思っていたのにはたと振り向いてみたら、何と元気のなくなってしまったプロレス界、格闘技界…。で、結局俺が旗振らなきゃいけないというのが、今の現状でね。まぁそれも使命だと思えばいいし。嫌だと思えば嫌だしね。もう辛い、ほんとに…。興行って結構厳しいんですよね、見た目は派手だけど。そういうとこから、引退をさせてもらってっていう思いがあったにも関わらず、人生ままならずで、どんどん逆へ動いてるっていう…。まぁそれも、人生楽しみゃいいなっていうふうに考えればね。